先日着物教室のお稽古で、みんなで「日本の男性はなぜ歯の浮くようなことを言ってくれないのか」という話になった。
「なんかおせじでも言っとけば、おかずの一品も増えるかもしれないのにね」「果物もついちゃうよ」などと話していた。言うのははただなんだから、とりあえず言っといて相手をいい気にさせてくれればいいのに。
もっとも主人から急に歯の浮くようなことを言われたら、ものすごくとまどうか、何かやらかしたかと怖さを感じるかもしれないが。。。
先日着物教室のお稽古で、みんなで「日本の男性はなぜ歯の浮くようなことを言ってくれないのか」という話になった。
「なんかおせじでも言っとけば、おかずの一品も増えるかもしれないのにね」「果物もついちゃうよ」などと話していた。言うのははただなんだから、とりあえず言っといて相手をいい気にさせてくれればいいのに。
もっとも主人から急に歯の浮くようなことを言われたら、ものすごくとまどうか、何かやらかしたかと怖さを感じるかもしれないが。。。
先月義父のお供で主人とともにクルーズの旅に出た。
とても楽しい旅だったのだが、ひとつだけ思うのは済州島でのこと。
タクシーをチャーターして、日本語の話せる運転手さんに案内してもらい。一生懸命やってくださったのだが、問題は運転手さん推しのところは日本にも、特に私の町にもあるということ。たとえば抹茶アイスクリームがおすすめの店に連れて行ってくれたのだが、静岡はお茶の観光地だ。海の眺めが素晴らしい景勝地も推してくれたが、静岡にも三保の松原がある。運転手さんの、うれしそうなどや顔を見ると言えなかったんだけどね。たのしかったら、もう一度済州島には行ってみたいと思っているんだけどね。
以前海外の知り合いをお昼に連れていく中、途中の道々を「きれいです」と何度もほめてもらったことがあった。私たちにしてみれば「何が?」という山道だったのだが、彼女の町では、あまりみずみずしい緑は見られないらしい。
そんなことも思い出しながら、どこかに連れて行ってあげるときにはその人のバックグラウンドがわかっていると、もっと案内しやすいのかもしれないと、済州島の海を見ながら思うのだった。
最近の夏の暑さは異常だ。20年以上にわたってやっていた清水七中の八月の練習も、この数年は休みにしてきた。体育館でエアコンがないので、熱中症対策のためには仕方がない。
しかし今年は25周年表演会に備えて、自由参加で有度交流館で練習をしている。この会場はエアコンがあるとものすごく助かるが、この快適さを知ると逆に9月から体育館に戻れるかな、と不安になってしまう。
昔は~だった、という大変な状況での練習自慢をよくしてたけど、今はもう、昔とは比較にならないくらいの暑さだ。
やっぱりなにかがおかしいのかな。
この数年間はゆるい筋トレとストレッチをしている。最近よく見るのは、筋トレは”みおジム”で、ストレッチは”みおジム”か”b-flow”
それらの説明でたまに「背中を長くして」「薄いおなか」などのフレーズが出てくるので、これはいいと思って使ってみている。私もそうかもしれないけど、スマホ首っぽくなってしまった方には「長い首」などという言葉も使っているが、これは意外とわかりやすいみたいで、スッと意識してくれる。
ありがとうございます。
たまに方向がわからないと言われる。重心をきちんと乗せれば必然的にその方向に向くのだけれども、なかなか重心をのせきることができなくて、そのまえに体を動かしてしまうから、覚えなければならないようになってしまう。これは確かに私も最初は全然わけわからなかったもんな・・とおもう。でも自分がわけわからなかったから生徒さんもわけわからないよね、で済ませるわけにもいかない。から、どうやって伝えよう?規定集をよんだり、動画を見てみたり、あっちから見て、こっちから見て。でもやっぱり重心だよな。
先日茶道のお稽古でいろいろ質問したら怒られてしまった。
順番優先ではなくて動作の一つ一つを丁寧にやりなさい、まずはなんでだろうと考えずに教えられたことを10年くらい黙ってやりなさい、と。
先生はものすごく真摯に茶道の稽古に取り組んでこられたので、尊敬する方だ。しかし私は茶道の先生になるわけじゃないし、趣味だもんなあ・・・と思ってやめようかな、と少し考えてしまった。
そして時間が経ってくると、先生が言うことはものすごく深い言葉だよな、と思うようになってきた。10年黙ってやる自信はあまりないけど、やってみようか。
ある程度習っていって、伝統に興味を持ち始め陳式太極拳をずっと練習してきた。といっても陳式の風格にはまだまだ及ばない。それでも好きだな、と思ってやってきた。
ただ、生徒さんで楊式が向きそうな方がいて、生徒さんがやりたいといった場合に備えて、教えるためにまず自分が練習しようと、練習を始めた。本当にものすごく久しぶりだが、やってみるととても気持ちがいい。もちろんこちらも楊式の風格は全然でていないのだが、こんなに気持ちのいい套路だったなんて、気づかなかった。習ったときに気づいていればよかったけど、あのときは全然興味も持てなかった。年齢と関係あるのだろうか?あるいは少しは太極拳がうまくなって、その良さが分かるようになったのか?
上達したからだといいなあ。。
着付けを習っていると、着物警察の話をよく聞く。そういう私も着物警察に遭遇したことがある。
一度目は私の帯揚げや帯結びについて。その方の観点ではあまり好ましくないみたいようで、お手洗いでやんわりと注意された。そうですか、まだ初心者で勉強になりました、と言ったが、アレンジは人それぞれなので、自分が誤っているとは思わない。着物も時代ごとに着方は変わっていく。そしてこの方のようにお手洗いのようなところで口頭で注意してくれる方はまだいい。
もう一度はお葬式の場で、突然帯を触られた。施主側であれこれ動き回って終わった帰り道だった。親戚の子に黙って触られ、ものすごく不愉快になった。
人の洋服を黙って触ることはないのに、なぜ着物だといいと思うのだろう。親切かもしれないが、着物を着れる人ならこそ、備えてほしい常識だと思う。
先日中国武術を習っている中国武術教育研究会の演武会があった。内輪のちんまりとしたものなので、気楽とはいえ、結構緊張した。
改めて動画を見てみると見るたびに反省点が見つかる。先生が言ってることってこれかあ、とよくわかる。普段失敗しない失敗をする。今回初めて足首を鞭杆でうちつけて、めちゃくちゃ痛かった。動画ではそこはあまりわからないのだが、気づかなかった失敗が記録されている。あと、歩き方もだらしない。
酒のつまみにはならないけど、何度か見て猛省しないと。。
学生である娘にとっては、友達は大きな関心ごとの一つだ。いろいろ話を聞いていると、他人事というのもあるけどおもしろい。
すっかり人に対して関心が薄まり、他人の言動に一喜一憂しなくなった私からすると、そんな日もあったなあ、という懐かしい思い出がわいてくる。当時、親友だもんね、と言っていた友達。毎晩のように電話した友達。今は彼女たちが、どこで暮らしているのか知らないし、なんなら会っても顔もわからないかもしれない。仲間だと言っていた人たちも。
だから、そんな一喜一憂する必要はないよ、なんて話が娘に響くわけでもないので、「大変だね」「そうなんだ」の2フレーズを駆使して話を聞く毎日である。
みかんやに暮れやお正月はない。
大晦日や三が日というものもなく、あっという間にここまで来てしまった。
新年くらいは、ゆったり座って「今年の抱負」なんてものを考えてみたいが、そんなゆとりはない。朝起きて働いて、夕方帰宅して、家の用事を済ませて寝る。めちゃくちゃ単純な毎日である。この毎日を丁寧に過ごすことが、おそらく禅でいうところの”いまここ”なんだろうと思いつつも、時間に追われて今日もあっという間に終わっていく。
先日生徒さんが「太極拳は気だ」といった内容のことを、別の生徒さんに話していたので、「違うと思います」と答えた。気というものを否定はしないけど、太極拳の理論は武術であり、その出所は、意というか、全身のつながった力というか、そういったものだと思う。
うまく説明できないのは、おぼろげにしかわからなく、それは私の鍛錬が足りないからで、生徒さんには申し訳ない。
この感覚がいつか確信に変わるときには、私の太極拳はどんなふうになっているのだろう。