太極拳講師のひとり言

みかんやに暮れやお正月はない。

大晦日や三が日というものもなく、あっという間にここまで来てしまった。

新年くらいは、ゆったり座って「今年の抱負」なんてものを考えてみたいが、そんなゆとりはない。朝起きて働いて、夕方帰宅して、家の用事を済ませて寝る。めちゃくちゃ単純な毎日である。この毎日を丁寧に過ごすことが、おそらく禅でいうところの”いまここ”なんだろうと思いつつも、時間に追われて今日もあっという間に終わっていく。

先日生徒さんが「太極拳は気だ」といった内容のことを、別の生徒さんに話していたので、「違うと思います」と答えた。気というものを否定はしないけど、太極拳の理論は武術であり、その出所は、意というか、全身のつながった力というか、そういったものだと思う。

うまく説明できないのは、おぼろげにしかわからなく、それは私の鍛錬が足りないからで、生徒さんには申し訳ない。

この感覚がいつか確信に変わるときには、私の太極拳はどんなふうになっているのだろう。

若いつもりでも、もう若いという年齢ではない。かといって年寄りというほどではない。そんな中途半端な年齢の中で、いつまでじたばたして動いていけるだろうか?

義母が股関節の手術をしたのが60代あたま。それまでバレーボールをがっつりやっていたらしい。ウォーキングが趣味の友人も60歳で股関節の手術をする。乳がんの知り合いが4名いる。

幸い今は特に悩まされることもなく動けているが、いつまでできるかな?それなら動いておかないと。いつか来るかもしれない、その日に後悔しないために。

自己流の筋トレで痛めた坐骨神経痛。その痛みをかばってきたせいか、最近股関節まで痛くなってきてしまった。そのため、最近はあまり動かないようにしてきたのだが、それでも痛みが増すばかりで、接骨院に行き始めた。そして今日予約日だったので、治療してもらえるんだからその前に練習しよ、と軽く練習をしたのだが、気づいたら痛くない!あれ?歩くのも痛いくらいだったのに??と思いつつ練習してみた。

昔は不調は無理すれば治る、みたいな論理でやってきたのだが、お年頃になり、やっぱり無理はいかんよね、となってきたこの頃。だが、やっぱり無理すれば治る?動いてほぐれたのだろうか?だったら明日もやらないと!

私の住む町に過去最大の客船が来るということで、着付けボランティアのお手伝いに出かけた。

港でも県主催の着付けがあるとのことだったので、私たちのほうにはあんまり来ないかも?暇なら港に客船を見に行ってみたいな、などと思っていたのだが幸いものすごく盛況で、気づいたらお昼も取らずに3時になっていた。その間休む間もなく着付けていたのだが、私はこの時間がとても好きだ。ボランティアではあるが、私にとっては生身の人間を着付ける絶好の機会なので、ものすごくありがたい時間である。

将来着付けの先生になりたいと思っているわけではない。お金なんて関係ない。単純に好きだからやる。喜んでもらえればとてもうれしい。こういったものに出会えて本当に幸せだ。



先日、少し小難しいことを指摘したら、まだまだですね、と言われてしまった。

そりゃあ、もちろんまだまだだよ、わたしだってたどり着く気が全然しない、遠い遠いはるかな道だよ、と思うけど、そんなこと言ってはいけない。はるかな道に思わせてしまったら私が悪い。まだまだ、なんて思わせたのは申し訳ない。あの電柱まで走ろう、という感じで引っ張って引っ張って、気づけば〇km走っちゃった、ということができたなら素敵だ。

だったらどう言ってあげたらいいんだろう。

言葉の選び方も、私はまだまだだ。

何組か長いお付き合いの友人グループがある。そのうちの一つのグループの友人と先日会ってきた。急遽会うことになったけど、東京に来れる?という連絡。待ち合わせは靖国神社大鳥居の前。なぜに靖国神社?と思いながら向かった先には10年ぶりに会う友達の顔。

会うのも久しぶりだが、連絡も久しぶりで、それでも会うと途切れなく会話が続いて、40年くらい前の、あったばかりのころと同じテンションでいられる。股関節を悪くして手術をするかもしれなかったり、体調不良に悩んでいたりという子もいて、今は幸い元気な私も、次いつ、彼女たちに会えるかわからない。だから会える人には会える時に会っておきたい。

次回もまた元気にたくさんおしゃべりできますように。


先日知り合いが来日して、静岡に立ち寄った。来るとわかってから、いろいろ調べて、静岡名物の、おいしい海の幸をちそうする気満々でいたのだが、刺身などの生は食べられないとのこと。それならばおいしいケーキなどと思ったら甘いものは食べないとのこと。美しい海岸線と富士山を見せてあげたいが、静岡にいる間はずっと雨。前回来日した時も雨だったとのこと。もしかして雨女?

それでも主人と一緒に畑を案内したり、東名のパーキングに連れて行ったら、とても喜んでくれた。その辺の道を走っても「緑がきれいですねー」と写真を撮っていた。住んでいるところと景色が違うらしい。家でとれた筍とお茶も喜んでいた。これでよかった?

喜んでくれたなら、すごくうれしいけど。

練習の中で足上げなどは必ずやるが、これは今はもう、あまり疲れない。無意識にできる。それはたぶん皆さんより数千回は余分にやっているからだ。

きれいな太極拳で少し昔を思い返して、たまにやっていた抱球の練習を、毎回取り入れるようにした。すべて正中線の前できれいにできるかどうか、脇が閉まっていないか。

「また!?」と思われるくらい何回も何回もやって、体になじませてほしい。無意識にきれいなボールができるように。そうしたら開合の練習。1万回やれば9900回は同じ間隔で開合が出来るように。

地道な練習だけど、できていない人が多い。地道な練習こそ、1万回くらいやるのがいい。


先日、生徒さんからきれいな太極拳ができるようになりたいといわれて、どういったものがきれいな太極拳といえるのか、しばらく考えてみた。それは、

呼吸が安定していること。

動作がゆったりとおおらかなこと。

軸がきちんとしていること。

きれいなボールを抱えていること。

足と手の動きがばらついていないこと。

などかなと思う。もちろん、上下相随、用意不用力とか、難しい言葉で生徒さんに説明すればそれらしいけど、そういったものはきれいな太極拳ができれば、あとからついてくるように思う。足を高くなんか上げる必要はないので、しっかりボールを抱えるように足を上げてほしい。見ていて気持ちがいい太極拳、そして自分がやっていて気持ちがいい太極拳。それがきれいな太極拳ではないかと思う。



私は別の習い事をしているので、そちらでは、すごく先輩方に教えていただく。先輩それぞれの教え方は違うけど、やはりこうしたほうが生徒にとって良いんじゃないかな、と思うことはただひとつ。

それは褒めることだと思う。10言いたいことがあっても1つか2つくらいしか言わないで、あとは褒める。中には10あると10言ってくださる方もいるが、私の経験でいうと頭が真っ白になって、逆に何もできなくなるし、委縮して何が何だか分からなくなる。

逆を言えば、人を出来なくするのも簡単なのかもしれない。

テストで大幅順位を下げた娘。振り返りをやろうとしたら「私、過去は振り返らないから」と言われた。一見かっこいいが、そこは振り返ってほしい。

一応今後の対策を書いてもらって、それをもとに学校に提出する、親の一言コメント欄を書くことにした。しかし、書いてきたのは私への対策ペーパーである。

振り返ってほしいのに、全く振り返る気のない娘。「そのままだと、私みたいになっちゃうよ」と言いたいけど、それを言うと自分が悲しいので、黙っていた。