太極拳講師のひとり言

先日茶道のお稽古でいろいろ質問したら怒られてしまった。

順番優先ではなくて動作の一つ一つを丁寧にやりなさい、まずはなんでだろうと考えずに教えられたことを10年くらい黙ってやりなさい、と。

先生はものすごく真摯に茶道の稽古に取り組んでこられたので、尊敬する方だ。しかし私は茶道の先生になるわけじゃないし、趣味だもんなあ・・・と思ってやめようかな、と少し考えてしまった。

そして時間が経ってくると、先生が言うことはものすごく深い言葉だよな、と思うようになってきた。10年黙ってやる自信はあまりないけど、やってみようか。



ある程度習っていって、伝統に興味を持ち始め陳式太極拳をずっと練習してきた。といっても陳式の風格にはまだまだ及ばない。それでも好きだな、と思ってやってきた。

ただ、生徒さんで楊式が向きそうな方がいて、生徒さんがやりたいといった場合に備えて、教えるためにまず自分が練習しようと、練習を始めた。本当にものすごく久しぶりだが、やってみるととても気持ちがいい。もちろんこちらも楊式の風格は全然でていないのだが、こんなに気持ちのいい套路だったなんて、気づかなかった。習ったときに気づいていればよかったけど、あのときは全然興味も持てなかった。年齢と関係あるのだろうか?あるいは少しは太極拳がうまくなって、その良さが分かるようになったのか?

上達したからだといいなあ。。

着付けを習っていると、着物警察の話をよく聞く。そういう私も着物警察に遭遇したことがある。

一度目は私の帯揚げや帯結びについて。その方の観点ではあまり好ましくないみたいようで、お手洗いでやんわりと注意された。そうですか、まだ初心者で勉強になりました、と言ったが、アレンジは人それぞれなので、自分が誤っているとは思わない。着物も時代ごとに着方は変わっていく。そしてこの方のようにお手洗いのようなところで口頭で注意してくれる方はまだいい。

もう一度はお葬式の場で、突然帯を触られた。施主側であれこれ動き回って終わった帰り道だった。親戚の子に黙って触られ、ものすごく不愉快になった。

人の洋服を黙って触ることはないのに、なぜ着物だといいと思うのだろう。親切かもしれないが、着物を着れる人ならこそ、備えてほしい常識だと思う。

先日中国武術を習っている中国武術教育研究会の演武会があった。内輪のちんまりとしたものなので、気楽とはいえ、結構緊張した。

改めて動画を見てみると見るたびに反省点が見つかる。先生が言ってることってこれかあ、とよくわかる。普段失敗しない失敗をする。今回初めて足首を鞭杆でうちつけて、めちゃくちゃ痛かった。動画ではそこはあまりわからないのだが、気づかなかった失敗が記録されている。あと、歩き方もだらしない。

酒のつまみにはならないけど、何度か見て猛省しないと。。

学生である娘にとっては、友達は大きな関心ごとの一つだ。いろいろ話を聞いていると、他人事というのもあるけどおもしろい。

すっかり人に対して関心が薄まり、他人の言動に一喜一憂しなくなった私からすると、そんな日もあったなあ、という懐かしい思い出がわいてくる。当時、親友だもんね、と言っていた友達。毎晩のように電話した友達。今は彼女たちが、どこで暮らしているのか知らないし、なんなら会っても顔もわからないかもしれない。仲間だと言っていた人たちも。

だから、そんな一喜一憂する必要はないよ、なんて話が娘に響くわけでもないので、「大変だね」「そうなんだ」の2フレーズを駆使して話を聞く毎日である。

みかんやに暮れやお正月はない。

大晦日や三が日というものもなく、あっという間にここまで来てしまった。

新年くらいは、ゆったり座って「今年の抱負」なんてものを考えてみたいが、そんなゆとりはない。朝起きて働いて、夕方帰宅して、家の用事を済ませて寝る。めちゃくちゃ単純な毎日である。この毎日を丁寧に過ごすことが、おそらく禅でいうところの”いまここ”なんだろうと思いつつも、時間に追われて今日もあっという間に終わっていく。

先日生徒さんが「太極拳は気だ」といった内容のことを、別の生徒さんに話していたので、「違うと思います」と答えた。気というものを否定はしないけど、太極拳の理論は武術であり、その出所は、意というか、全身のつながった力というか、そういったものだと思う。

うまく説明できないのは、おぼろげにしかわからなく、それは私の鍛錬が足りないからで、生徒さんには申し訳ない。

この感覚がいつか確信に変わるときには、私の太極拳はどんなふうになっているのだろう。

若いつもりでも、もう若いという年齢ではない。かといって年寄りというほどではない。そんな中途半端な年齢の中で、いつまでじたばたして動いていけるだろうか?

義母が股関節の手術をしたのが60代あたま。それまでバレーボールをがっつりやっていたらしい。ウォーキングが趣味の友人も60歳で股関節の手術をする。乳がんの知り合いが4名いる。

幸い今は特に悩まされることもなく動けているが、いつまでできるかな?それなら動いておかないと。いつか来るかもしれない、その日に後悔しないために。

自己流の筋トレで痛めた坐骨神経痛。その痛みをかばってきたせいか、最近股関節まで痛くなってきてしまった。そのため、最近はあまり動かないようにしてきたのだが、それでも痛みが増すばかりで、接骨院に行き始めた。そして今日予約日だったので、治療してもらえるんだからその前に練習しよ、と軽く練習をしたのだが、気づいたら痛くない!あれ?歩くのも痛いくらいだったのに??と思いつつ練習してみた。

昔は不調は無理すれば治る、みたいな論理でやってきたのだが、お年頃になり、やっぱり無理はいかんよね、となってきたこの頃。だが、やっぱり無理すれば治る?動いてほぐれたのだろうか?だったら明日もやらないと!

私の住む町に過去最大の客船が来るということで、着付けボランティアのお手伝いに出かけた。

港でも県主催の着付けがあるとのことだったので、私たちのほうにはあんまり来ないかも?暇なら港に客船を見に行ってみたいな、などと思っていたのだが幸いものすごく盛況で、気づいたらお昼も取らずに3時になっていた。その間休む間もなく着付けていたのだが、私はこの時間がとても好きだ。ボランティアではあるが、私にとっては生身の人間を着付ける絶好の機会なので、ものすごくありがたい時間である。

将来着付けの先生になりたいと思っているわけではない。お金なんて関係ない。単純に好きだからやる。喜んでもらえればとてもうれしい。こういったものに出会えて本当に幸せだ。



先日、少し小難しいことを指摘したら、まだまだですね、と言われてしまった。

そりゃあ、もちろんまだまだだよ、わたしだってたどり着く気が全然しない、遠い遠いはるかな道だよ、と思うけど、そんなこと言ってはいけない。はるかな道に思わせてしまったら私が悪い。まだまだ、なんて思わせたのは申し訳ない。あの電柱まで走ろう、という感じで引っ張って引っ張って、気づけば〇km走っちゃった、ということができたなら素敵だ。

だったらどう言ってあげたらいいんだろう。

言葉の選び方も、私はまだまだだ。

何組か長いお付き合いの友人グループがある。そのうちの一つのグループの友人と先日会ってきた。急遽会うことになったけど、東京に来れる?という連絡。待ち合わせは靖国神社大鳥居の前。なぜに靖国神社?と思いながら向かった先には10年ぶりに会う友達の顔。

会うのも久しぶりだが、連絡も久しぶりで、それでも会うと途切れなく会話が続いて、40年くらい前の、あったばかりのころと同じテンションでいられる。股関節を悪くして手術をするかもしれなかったり、体調不良に悩んでいたりという子もいて、今は幸い元気な私も、次いつ、彼女たちに会えるかわからない。だから会える人には会える時に会っておきたい。

次回もまた元気にたくさんおしゃべりできますように。